沖縄に通い始めて約40年余になるが、最初の頃よく耳にした言葉に「マブイ」がある。マブイを落としたとか、

マブイグミ(マブイ込め)をするとか言っていた、マブイ=魂。

この魂のふるさとである沖縄に深く傾倒していった。古代への悠久の旅(短い人生ではあるが…)が始まったのだ。

後に、このマブイのルーツが「マナ(mana )」であることをある書物で知った。 

 

日本の近代思想史100年の流れの中で大きな足跡を残した折口信夫の代表的な著作『古代研究』との出会いは、

日本の原郷、ひいては人間の根源(本質)を追い求める手引きとなった。

昭和初期に発刊された『古代研究』(全3巻)の中で「マナ」がたびたび登場する。

 

『若水の話』では「柳田(國男)先生はマナなる外来魂を稜威(イツ)なる古語で表したのだと言われたが、おそらく正しい考えであろう。

〈いつ〉・〈みいつ〉・〈いつの〉など使うのは、天子および神の行為・意思の威力を感じての話だ」と。

『花の話』等では―「私は、トーテミズムは吾々のマナの信仰と密接して居るものとするのである。

吾々と同一のマナには、動物に宿るものもあり、植物に宿るものもあり、或は鉱物に宿るものもある。

吾々と同一のマナが宿る植物なり動物なりを使用すれば、呪力が附加すると信じて居たのだ」と言い、

さらに日本人の霊魂観が「魂(死後の世界)と魄(死んで骨となる姿)のような区別」がなく、

増えたり減ったりするマナ(外来魂)であり、神道はマナ信仰の最高峰であるとした。

琉球への3回にわたるフィールドワークで出会った祭祀―八重山諸島の秘祭「赤マタ黒マタ」などに「霊魂」の存在を見る。 

 

 ヨーロッパの民俗学でも早くからその存在は知られていた。

フレイザーの『金枝篇』を引き継いだフランスの社会人類学者マルセル・モースは

「マナ」の概念について「マナとは一つ力であるばかりでなく、一つの存在である。それはまた一つの作用であり、質であり、状態である」。

だからマナという言葉は、「同時に名詞であり、形容詞であり、動詞である」と述べる。

 このモースの叔父であり「マナイズム」を提唱したデュルケームは、トーテミズムの根源にマナへの信仰を据える。

 

 まとめて言えば、人間と動物と植物と鉱物、すなわち人間を含む森羅万象あらゆるものに相通じる生命原理が「マナ」であるということ。

 「マナ」はすでに世界共通語と言われている。英語では「マナー」と言い、

日本語では真名井=アメノマナイ=水の湧く泉、食べ物が生まれる井戸、と言われている。

この「真名井神社」(京都・宮津)は、古代からのパワースポット。是非一度訪れてみたい。

 

 遠く離れたニュージーランドの先住民マオリ族の間では〈お金〉ではなく、ある〈価値観〉が流通していて、

その〈価値観〉が「マナ(mana)」と呼ばれ、人々は最大級のマナを持って生まれるが、不徳や罪を犯せばマナを失う、

だが善行により「与える」ことでマナは高まるという。マオリ族は、カネやモノのためでなく、

マナを高めるために生まれて来たのだ、という古老の話を新聞のコラムが伝えていた。

 この“マナの教え”は、これからの社会のあるべき姿を示唆している。

 

 

〈追記〉 安藤礼二氏の最新刊『折口信夫』からは、若き折口信夫が大本教の開祖―出口なおや王仁三郎と会っていた事実、

折口の古代学と王仁三郎の霊学は明らかに一つの起源の場所を共有していたことなど、多くの教示を得た。